2024.05.02 院長コラム
衣を脱ぐ
大学時代、一目置いていた先輩の一人が、鼻を膨らませて言った。「自分は、いろいろな努力や経験で、形の不明瞭だった自分を少しずつ削って現在の自分を形成してきた。」これは、そのときの自分としては感動して聞いていたものだった。目覚めていない自分から、青春時代の不安定さを乗り越えて、やっと自分のかたちを見つけつつあった先輩の言葉だったろう。
しかし、人生晩年になった今、おそらくその先輩は今は同じこと言わないだろうと思うな。抽象的な表現だが、確かに一皮むけて青年になった彼は、次に社会と戦うために、いろいろな装甲や武器を身に着けていったはずだ。削るというよりも、どんどん仕事の技術を身に着けたり、社交術を身に着けたり、自分を納得させる方法を身に着けたり、あたかも削ったと思われたその身に、いろいろな衣を重ねていったはずだ。それがその後の生き方を形成していったはずだ。それは時に建設的で広がりがあったり、時に自分を守るための方便やプライドだったりすることもあるかもしれない。良いこと悪いこと、いろいろな衣が自分の身に重くのしかかっているが、それまで重く重ね着をしたからこそ頑張ってこられたのも事実だ。
小さな子供たちを見ていると、なんとよく動き回ることか、またなんと無邪気に笑い転げることか。それはまさしく良くも悪くも衣をまとう前の状態だからだろうか。我々は重い衣のために動き回ることも気持ちをあちこち走らせることも鈍くなってきている。
還暦を過ぎた今、自分は最近自然に徐々にその衣を脱ぎつつあるな、と感じている。身に着けた衣が、時に良いもいのだったり、そうでもなかったりしたように、衣を一つづつ捨ててゆくのも、よい側面もあれば、悪い側面もある。たとえば、医者として、博士号や専門医資格を取って維持しているわけだが、今はそんな称号は何の価値もない。捨て去ってよいものだ。そもそも医者のことを「医師」とか「先生」とか称するのも、だれが作ったのか、初めからまとうべきではなかった称号だ。医業をしているからと言って師とは限らないし、人に示すべき先生とは限らない。むしろ受診される患者さんのほうが師であることは非常に多い。
また、いい服を着たり、立派なものを買ったりするのも、あまり意味がなくなってきている。服はユニクロで十分だ。数十年着続けている衣服も時計もある。若い人が聞いたらびっくりするかもしれないが、数十年というのはあっという間だ。以前ホテルマンの友人が、「人を見るには靴を見る」なんて言っていたが、靴の高価、きれい汚いなんて言うのも何のこだわりもない。もしもその友人のような価値観の人々が安い服、汚い靴の自分を見て、自分の価値を評価しようが、それ自体が意味がない。勝手に評価していただいて結構。自分は自分以上でも以下でもないからだ。同じく、自分を立派な人物であるように見せる衣も、もう意味がなくなっている。見栄だとか、意地だとか若いころに身に着けようとした衣だ。しかし今の自分は今考えられることしか考えない、できることしかできない。(もちろんそれは努力を放棄しているわけではない)
つらつら書き続けていると、果たして私はどこまで衣を脱いでゆくのか、最後は裸で死ぬのか、と思うことがある。できればその心境に近い自分になりたいものだと思うが、衣の中には有益なものもたくさんあるわけだ。脱ぎすぎると、逆に開き直って頑なになったり、子供のようになったりするんだな。