2024.05.02 院長コラム
価値あることを探して
何気ない毎日の生活が、特別なことよりもずっと価値があったと映画で女優が話すシーンがある。その毎日の生活に価値があることを、年を取った私は実感としてよく知るようになった。しかしそれでもなお、人間は自分にとって価値のある事柄を探し求める。
多くの映画やドラマが、人間に最も価値のあるものは愛だという。また、お子さんが一番価値のあるものと考える方々も多いだろう。人間関係の不得意な私には、正直なところ心からそれを理解しているとはいいがたい。むしろ、愛に最大級の価値を得られず、別の価値のあるものを探している、そんな人々も多いのではないか?
今日しばらく車を運転して気分転換をしてきた。それは特に価値のあるものではないと思われるが、なぜ運転するのか?その数時間の貴重な時間に、何か価値のあるものを探し求めるべきだったのか?人にとって価値のあることが本当にあるのであれば、毎日我々が食べたり、仕事をしたり、人と話したり、休んだり、そのような雑事には価値がないと言う事になる。毎日価値のないことばかり繰り返していることになる。
すると、最初の行に戻るが、毎日の何気ない生活が最も価値があるのだと思いたい、そんな心の働きもあるかもしれない。そもそも、なにかに充実感を感じたり、気持ちよく感じるのは、ある行動が脳内のある神経伝達物質を増やした結果だろう。少なくともそれに支配されている程度の価値観は意味がないかもしれない。運動して気持ちがいいとか、人に良いことをしてあげたら気持ちがよかったとか。脳内伝達物質に支配されない価値観が本物だとすると、論理的に、こうだからこれは価値がある、と考える事柄、それが人間の価値観なのか?
例えば、戦争はよくない、人々を殺すから。平和はよい、人が死んだり不幸にならずに済む。間違いのない判断だろう。しかしそれが真の価値であれば、どうして世界中に戦争が絶えないのか?戦争や対立の有無よりも宗教やイディオロギーのほうがより重要な価値だと判断する人々がいるからだ。その価値観に対して私は、明確に間違っていると自信をもって言い切れない。
そんなことを考えると、本当に価値のある事、などという概念自体がそもそも間違いなのかもしれない。幻影なのかもしれない。絶対的な価値を探し求めるのではなく、混沌の海に浮かぶ転々と浮かんでいる島々を渡り歩いているだけなのかもしれない。価値あるものとして選択するのは、本当の価値を見出すのではなく、たまたま選んだ島に価値を見出したいと努力しているのかもしれない。
「人間は何のために生まれてきたのか?」小説や映画で繰り返される問いだが、我々はもちろんその答えを知っている。「何かの目的のために生まれてきたわけではない」それに尽きるはずだ。だからこそ誰もが自分の生活の中に何らかの価値観を見つけようとせずにいられない。価値観を見つけられずに毎日不幸やストレスを感じている人も多いかもしれない。普遍的な価値観でなくてもよい、人にどういわれてもいい、自分の価値観を感じている者は幸いだ。
私は医者として、自分の仕事に価値観をかなり感じている。少なくとも自分のほかの活動よりもはるかに強く。ただ、それが自分にとって生の意義を感じるほどのものなのか、いまだにわからない。
癌にかかったことのある多くの人がいうのは、「毎日の生が非常に輝いて価値のあるものになった。」という。それは、命の残りに期限を付けられたため、毎日が貴重で、生きていること自体がありがたいこととなったのだろう。このような現象を評価するのはどうかしているが、月並みな言い方でいえば「希少価値」というわけだ。人間が80年生きるとして、365x80=29200日。決して多くはない日数なのだが、これをなかなか切羽詰まって短い命と実感として感じることがなかなかできない。私は60歳を超したので、残りはこの約4分の1、約20年としてたぶん7000日ほどだ。春は20回しかめぐってこない。それでも切羽詰まって短い命と考えることは(口先では言っているが)難しい。その結果、私は明日もたぶん比較的無為に価値も考えずに7000分の1日を過ごす。