2021.04.10 院長コラム
SNSの誹謗中傷に思う
正義というのは人によってさまざまであることは間違いない。
子供のころ、テレビなどで仮面ライダーやウルトラマンのような、単純な勧善懲悪を見てきたわけだが、意外にそれは自分の中に大きな位置を占めている。三つ子の魂百までというわけでもないだろうが、幼少期の繰り返しのインプットは、そう簡単に消え去らない。変節しない。
日本人は、多神教ともいわれ、宗教がないともいわれる。しかし、「おてんとうさまがみている」とか、「恥」という概念は、宗教とは違う日本人のバックボーンになっていると思われる。それがあるからこそ、日本人は必ずしも宗教がなくても行き先を見失うことが少ないのだと考えたい。それはまさしく「正義」と同義だ。私の仕事でいえば、例えば金儲けのために余計な検査や投薬をするとか、面倒だからと手抜きの診療をするとか、自分の間違いを隠ぺいするとか、その他いろいろな落とし穴があり、それは時に魅力的であることもある。それをできる限り避けていられるのは、ひとえに幼少期の単純な正義感だと思われる。正義がなければ、医業は単なる金儲けの手段や生活の手段に成り下がり、私自身にとっての医者としての本当の醍醐味、仕事の魅力をすっかり失うだろう。
ただ、子供と同じ画一的な正義であればまったくの無節操になってしまうだけだ。幼少期の正義と大人の正義の一番の違いは、常に自分の正義が本当の正義であるかどうか、振り返ったり、検証したりしつつ運用する正義であると思っている。自分が正しいと思っていることには、自分で自分自身に隠している裏がないか、ほかの意図があって正義と信じていないか、他人から見ても正義といわれるのか、常に自己検証されなければならない。一番の正義の裏切り者は自分自身である可能性が高い。自己検証には限界があるかもしれないが、それでも繰り返さなければならない。その自己検証のプロセスを省略してしまうと、ウルトラマンは常に正義で、怪獣は常に悪いといった危険な勧善懲悪が生まれる。最近のSNS上での無責任な誹謗中傷はその典型的な例だ。なぜ自分が人の悪口をSNSに載せたくなるのか、それを振り返るプロセスが抜けている。