2020.11.14 院長コラム
猜疑心の時代
世の中あらゆるところで互いの信頼関係が崩れつつあります。これは決して各々が悪いことをするようになり、他人を疑ってかかる必要が増したわけではなく、社会全体の雰囲気というやつであります。たとえばバブルの時期の社会の無駄な昂揚感だとか、バブルがはじけたときの保守的な暗さなどは皆の記憶に新しいことでしょう。それに伴って服装の好みまで変わってしまうわけですから、面白いものです。 現在の時代をある尺度で定義するならば“猜疑心の時代”ともいえます。人を疑うということは、他人が疑わしいということのみならず、裏を返せば自分自身に対して自信をもてないことの表れでもあります。社会への不信感は、そのまま社会で活動する自分自身への不信感でもあります。まあまあ努力すれば報われる、生活は安定する、といった過去の生活が崩壊し、なかなか生きてゆくのに厳しい時代、その時代に対する不信感というよりも自分自身に対する自信喪失や無力感が猜疑心を生んでいると考えます。 私はなかなか難しいですが、本当に強い人間は、人を疑う必要はありません。問題が起こった時点でそれに適切な対処を出来るのであれば、将来起こるかどうかわからない問題をいまから恐れるのは労力の無駄であり、人が疑わしいとしてもそれは現実の問題が生じたらそれに対決するだけでよいのです。“転ばぬ先の杖”が勝りすぎると結局「杖を持って外出せずに家の中に居よう」と言う考えにとらわれてしまったり、杖で人を傷つけたりすることになりかねません。 マスコミでは色々な凶悪事件や不幸な出来事を非常に生々しく報道してくれます。しかしそれらの事件の犠牲になる確率と、今運転している車の犠牲になる確率はどちらが高いのでしょうか? あら捜しをするために生きてゆくことはつまらない。心を平穏に生きてゆきたいものです。 |
2009年06月07日 |