かつて専門店で大変驚いたところが2箇所あった。1箇所はある田舎都市の商店街に現れた餃子専門店、もう一つは昔札幌で某大学の近くに現れたカレー専門店である。どちらも鮮明に覚えているのは、「えっ」と思うほどおいしくなかったためである。両店の名誉のために付け加えておくが、「おいしくない」のであって、「まずい」わけではない。私の勝手な評価では、要するにどちらも家庭料理の域を出ないものだった。餃子はスーパーの冷凍餃子を買ってきて自分で焼いたらこうなるだろうというレベル、カレーは好みもあるが自分のほうがおいしいものを作れると確信した。 一般食堂の餃子あるいはカレーライスがたまたままずかったのなら、これは不自然ではない。食堂の主人がオールマイティーに料理がうまいとは限らない。親子丼はうまいがカツ丼のカツを揚げるのは不得意だとか、ご飯ものはうまいが麺類はいただけないとか、いろいろあるだろう。しかし専門店と銘を打っておいしくない料理を出すのは大胆不敵だ。その店の将来は見えていると思うが、驚異的なことに前述の餃子屋のほうはつぶれずがんばっている。 餃子専門店という看板、これは二通りの解釈がある。一流の餃子を提供する腕を持っているという意味、そしてもう一つは餃子しか作れないという意味での餃子専門店もありうるかもしれない。これは大変な違いのように思えるが、そうでもない。たとえばオートマチックの車しか運転しない私の妻はいまやマニュアル車は運転できないが、オートマチック車は実に上手に運転する。マニュアル車もオートマチック車も運転する私よりもオートマチック車の運転は上手かもしれない。彼女はオートマチック車のベテランドライバーと呼ぶべきか、オートマチックしか運転できない下手なドライバーと呼ぶべきか、評価は難しいところだろう。そんなことを考えると、意外と○○専門店なんていうのは主観的な定義であって、誰も否定はできないのだろう。 ところで私は循環器専門医の肩書きを持っている。いわば心臓専門店だった。しかし総合病院循環器科勤務をやめた現在は専門店というよりも一般食堂である。内科一般の範囲は膨大に広く、各分野の専門家(消化器科だとか、呼吸器科だとか、泌尿器科だとか、心療内科だとか)の協力を仰ぐことしばしばである。
かつて北大循環器内科に入局(就職)した際に当時の教授がおっしゃっていた言葉を思い出す。「きみたちは心臓だけの専門家になってはいけない。心臓はあらゆる他の内臓の病気と結びついているのだから、“心臓に精通した内科医“にならなければならない。そのために循環器内科と名前が付いているのだ。」今になってその言葉の重さをひしと実感する。心臓しかできない内科医ではなく、心臓が特に詳しい内科医にならんと日夜奮闘しているが、まだまだ学ぶことは膨大だ。道は果てしなく遠い気がしているが、その果てしない道に人生の楽しみを見出している。 |