命根性が汚い?? 以前勤務していた病院で、初めてこの言葉を耳にしたときには、一瞬理解できず耳を疑った。定期的に外来に通院されているざっくばらんな初老の婦人が、いろいろ体に調子の悪いことが重なって、私の診察室でひとしきり症状を訴えた直後のことだった。 「私は命根性が汚いから・・・」と恥ずかしそうに加えたのだ。 なるほど確かに意味は良くわかる。おそらく「私は生きるのに執着しているから、うるさく言ってすみません。」と言うようなニュアンスだったのだろうか。その後も偶然何度か続けてその言葉を他の患者さんから耳にする機会があった。急に続けて耳にしたのは、もしかして私の診療態度にそう言わせるような受け入れがたい雰囲気があったのだろうかと自問自答した。また、「長生きしてすみません。」と言うようなニュアンスでも使用されるようだ。 それにしても不思議な言葉だ、とつくづく思う。命に執着するのは当然のことで、執着しなくなったら人間生きていないだろうと思うのだが、どうもこの言葉はネガティブな意味合いで使われているようだ。 この言葉は何時からあるのだろう。武士の時代に形成されたのか、戦争に伴って大衆を利用するために発明されたのか。いずれにしても人に、特に年配の人間に「自分は命根性が汚い」と言わしめるのは今の家族や社会のあり方を反映していると感じてしまう。老人に「長生きしてすみません」と言わせるこの社会はどこかゆがんでいる。万人がたどり着くであろう「老後」の老人の場所がなければ、誰もが将来に希望を見出せなくなる。若者までもが希望を持てず、居場所をもてない社会になっているのはそんな老人の姿も反映しているのではないだろうか。 |