2020.11.14 院長コラム
上げ膳据え膳
外来で長年おつきあいのあった70台後半の女性Hさんは、ずいぶん前にご主人を亡くし、古い一軒家で一人暮らしをしていました。Hさんは、お年の割にかくしゃくとした、尊敬すべき女性でした。いつも診察室の椅子にピンと背筋を伸ばして座り、精神的にも背中に一本筋が通ったような彼女の態度には、すがすがしいものがありました。 彼女の二人の息子さんは少し離れた都市に住まいを構えています。とても優しい孝行息子さんたちのようです。 「息子の嫁がまた、いい人でねえ、優しくしてくれるんですよ。 息子も一緒に住もうと言うんだけれど、私は一生ここで何とか暮らしてゆきます。」 そんな彼女と知り合って5年ほど経過したころ、彼女も80歳を過ぎて年齢的な体力の低下を強く自覚するようになってきました。 「先生、最近歩くのがつらくなってきてね。」 「最近食事を作るのがおっくうで。」 と、一人暮らしのつらさを訴えるようになってきました。 診察室で私の見た限りでも、彼女は少し背中の筋が抜けたような、やや頼りないお年寄りになりつつありました。 (これは彼女にとってやはり一人暮らしをやめる潮時なのかもしれないなあ。) と私も感じていましたが、とうとうある日彼女がこう切り出しました。 「先生、息子のところに行こうと思う。近くの病院に手紙を書いてください。」 「そうだね。」と私は二つ返事で息子さん宅の近医に向けて紹介状を書いたのでした。 それからもちろん、私の外来から彼女の姿は消えました。「お子さんやお孫さんに囲まれて元気でやっているのだろうなあ。」 と、時々思い出すことがありました。 しかし半年ほどたったある日、突然私の外来に彼女は戻ってきました。ばつの悪そうな顔で、 「息子も嫁も、優しくしてくれたんですよ。私の部屋も用意してくれてねえ、上げ膳据え膳でねえ・・・」そう話してくれる彼女は、決して戻りたくなった理由については触れませんでした。しかし、今までずっと離れていた息子夫婦が愛情を込めて一生懸命やってくれる上げ膳据え膳が、彼女にとってかえって居心地が悪かったことは想像に難くありません。やさしさというのは難しいものです。 今後も彼女は足がつらい、ご飯の支度がつらい、一人はさびしいなどといいながらも一人で暮らして、一人で家事をこなしてゆくのでしょう。かくしゃくとした彼女も大好きでしたが、少し気弱になった彼女はより人間的な感じがして以前よりもっと親近感を持つようになりました。少なくとも体が何とか動ける間は愚痴を聞きつつ見守ってあげたいものだと、診察室を出てゆく彼女の後姿を見送りました。 2006年09月01日 |