病気を持っていることと元気で健康であることは必ずしも関係がないようだ。体力が有り余っていても常にどこかが病気でないと気がすまない人もいれば、体力や健康に制限があるにもかかわらず前向きに暮らしている方もいる。私は診療を通して、多くの素敵な人々と出会う機会を得てきた。その一人、Kさんは70歳を超えた御婦人で、プロの絵描きだった。彼女は重い心臓弁膜症を持っていて、心臓手術を受けていた。決して体が楽なわけではなく、倦怠感やむくみや、ちょっとしたことで寝込んだりを繰り返していた。風邪もとってもひきやすい。風に飛ばされそうな細い体で、いつもよれよれしながら病院に現れる。家事もままならないことも多い。「1週間前から数日間体がつらいことがありました。2週間前に足のむくみが3日間ありました。」などと経過を的確に報告してくれる。それは決して愚痴ではない。そうやって彼女は自分の体を自分で観察し、自分でコントロールしているのだという自負を持っていた。 彼女は抽象画を描くのだが、絵心のない私にはさっぱり理解できない。「最近絵を描く体力がなくなってきました。」と言っていたと思ったら、次の外来では「私、コンピュータを始めましたの。」といって、額に入れたコンピュータで描いた絵をプレゼントしてくれた。それはやはり私の理解を超えたピカソの絵のような抽象画だった。絵の価値はわからないが、彼女が70歳を超えて新たにコンピュータでの絵画に挑んだということに敬意を表したい。 続いて彼女はインターネットを始めた。「先生、Eメールを送りますからメールアドレスを教えてください。」というので書いて渡したところ、しばらくしてメールが来た。「キーボードに慣れないので打つのが大変なのですが・・・」と始まったが、一生懸命現在の体調なども書き記していた。それから私は彼女とたくさんのメールのやり取りをした。なにせ先方は職業画家なので、芸術や絵についてもいろいろ教わった。私は具体的な絵を見るのは好きだが、抽象画を理解することは最後までできなかった。彼女によると、絵は抽象画も含めて「心のままに」描いたり見たりすればよいのだそうだが、「心のままに」従うその「心」が私にはなかった。あるいはそれを脳味噌の中から発掘することができなかったのかもしれない。 ある日彼女からメールが来た。「体調が悪く、今日先生の外来がなかったため別の先生の外来にかかりました。 相談もあるので一度お話したい。」とのことだった。ちょうど週末でもあり、週明けに病院で診察とは別にお話を伺うことにしてメールを出した。しかし彼女とはそれが最後のメールになった。その翌日に彼女は重症の脳梗塞を発症し、帰らぬ人となった。 私の書棚には外来で彼女に貸りた「イコンとイディア」という芸術論の本が残されている。どうしても芸術に疎いのでさっぱり読み進めない。それでも勝手に彼女の遺品だと思って本棚に飾っている。 Kさんは決して健康ではなかったが、最後まで元気に暮らしていた。彼女の体力は少なかったが、少ないなりの体力で人生を生きていた。元気に暮らすことには必ずしも健康は必須ではないのだと考えさせられる。むしろ健康や体の調子を気遣うことに拘泥されて、自分なりに元気に暮らすことを忘れてしまう人間も少なからずいる。言葉で言うのは簡単だが、果たして私は老後もなお前向きに暮らしてゆけるだろうか。Kさんのメールは私のコンピュータの中に永遠に保存されている。 |