私が医学生だった時のこと、実習で病院の色々な部署を回っていました。すると、多くの場所で、まだ学生であるにも関わらず、先生、先生といわれます。学生に向かって「先生」はないだろう、とおかしな気持ちを抱いたものでした。 そして卒業して病院に勤務を始めたとき、卒業したばかりのできたてのほやほやの医者に対しても「先生」という枕詞が付きます。本当におかしな世界です。「おかしい」と言う感覚は一年目の医師であった頃から20年近くたった今でも拭い切れません。あえて私は「医者」と書きますが、「医師」とは書きたくありません。医療の専門家が医師、看護の専門家が看護師、薬を作る専門家が薬剤師と呼ばれる昨今、「師」とは何か、とも考えてしまいます。 以前に中国の医者と一緒に仕事をしたことがありました。 「中国でも医者は先生と呼び合うのですか?」 と尋ねたところ、 「中国ではおたがいに『○○医師』と呼び合うのですよ。」 と教えられました。中国でも事情は同じようです。 「先生」「師」の中国語の本当の意味を私は聞きそびれましたが、少なくともこれらの言葉を乱用することが本当の先生や師の価値をおとしめていることは間違いありません。 卒業したての若造が「先生」などではないことは自明であり、それを普通だと思えることは病的だと思います。 とはいえ、私は今でも毎日何十回も「先生」と呼ばれて暮らしています。先生と呼ばれるたびに「違うんだ!」と心の中で抵抗することにはもうとっくに疲れてしまいました。せめて自分では「医師」ではなく「医者」と自称しようと思っています。また、建設的に考えると、「先生」「師」と言う称号は、それに見合うだけの人格を身につける事を要求されているのであり、将来の立派な姿を期待した前払いの称号か?とも考えて現在の称号を受け入れています。でもやはり 「本当の先生には申し訳ないなあ。」 という気持ちは拭い去れません。 暴力や性やお金など本来日陰者である事物が堂々と巷を闊歩しているように、「先生」や「師」という言葉が世の中で大安売りをされるのは決して健康的なことではないと私は思っています。 医者は半分哲学者であり半分科学者だと私は考えています。科学者の目で見ると物事には必ず原因があり結果があります。ないと思うのは分からないだけです。そういった意味で見ると、世の中に先生や師などの言葉が大安売りされるには原因があるはずです。 私事ですが、私の妻は教師を父に持って育ちました。完全なファザコンです。しかし教師を父に持ち医者を夫に持つその妻も、 「先生といわれる職業にまともな人間は少ない。」と言います。大抵そう呼ばれる人種は子供の頃からお勉強ができない子ではない。また若くして先生、先生と祭り上げられる、知らず知らずのうちにどんどんその気になって自分の位置を見失う、という構図は想像に難くない展開です。呼ばれる方の経緯はそのような単純なものだとしても、それでは誰がその使い方を考え出したのか? これは想像にすぎませんが、とお断りしておきます。先生と呼ばれる人種の共通点は明白です。代表選手で例を出しましょう。 医者は、医療行為をするのにはたけています。その行為は生命を左右することから、大きな影響力を持っています。しかし医者はある意味では職人のようなものです。多くの医者は医療を施すことにはたけていても病院を動かすこと、医療行政を動かすことには必ずしも関心があるわけではありません。その力の向けられる方向が定まっていないとも言えるでしょう。すると、病院を経営する者、医療行政を動かす者にとっては、医者をうまく使うことは大きな力を動かすことです。自分で医療を行うことよりも医者を動かすことの方がより大きな力になり、またうごかすものによってその力の方向性が決まってくるのです。現在の医療行政の方向も医者の医師には関わりなく、まさしくそのような仕組みで動いているとしか思えません。 また、代議士の場合はどうでしょう。彼らもまたある意味では大きな力を持っていますが、その細かな実務については役人、官僚の力を借りないとスムースには事が運ばないのが現状でしょう。逆に、各省庁の役人にとっては代議士が気持ちよく自分達の思うとおり動いてくれるとそれに越したことはないのです。それがうまく行かなくなった例が田中真紀子氏や田中康夫氏の例です。 その他、先生と呼ばれる者達に共通することは、大きな力を持ってはいるものの、それはしばしばとても不器用な力なので、方向が定まりにくい。もっと上にある他の力、政治や権力や世論などに左右されやすいということです。逆に言うと方向性のない大きな力を第三者がうまく使うために先生という称号がかり出されたとも言えます。 先生という言葉は先に生まれると書きますが、ずっと後に生まれた者達が色々な思惑で先生に奉り上げられています。それを利用するものもいれば利用される者もいます。私はどちらの側にも立ちたくないものだと思っています。 2006年03月01日
|