2019.12.25 院長コラム
「先生、病は気からなんて嘘ですよ」
この言葉は、在宅で診療しているある90歳代の男性の言葉である。
彼は16歳で戦争に召集され、ひどい戦争を経験してきた。歩兵同士の戦いで、すぐ目の前の敵がどんな表情で自分に突撃してきたか、その相手が自分に刺されたり撃たれたりして、どんな顔で死んでいったか、そんな敵の表情がそれぞれ今でもはっきり思い出されるという。
相手に子供や奥さんがいたのか、自分と同じような生活をしてきたのか、そんなことは後から想像することである。その時にはそんなことは考えることができなかった。それでは生きていけなかった。自分は単なる殺人マシーンとして行動せざるを得なかったという。
自分たちをそうさせた戦争は二度とあってはいけない、と彼は言う。自分が殺してきた人間に対する罪悪感、そして次々と亡くなっていった仲間、その中でなぜか生き残ってしまった自分に対して、罪悪感を背負いつつも、なぜかまだ生きている。
診察時に目の前でそう訴える彼は、本物だ。飾りもない、見栄もない、言い訳もない。せめて私はそれをできうる限りそのままくみ取ろうと話を聞く。
彼は心臓の衰えはあるが、90歳代にして全く知的衰えを知らず、今でも毎日いろいろな本を読んでいるようだ。忘れやすくなったとは言うが、話す言葉は的確であいまいなところがない。
でも、最近少し気弱になっていて、「年を取ると、感覚が鈍くなってくる。以前は興味深かったり新鮮にとらえられたことが今は何となくぼんやりとする。」と訴えるが、それはあくまでも相対的なものだろう。
これは私の邪推だが、あまりにも苦しいことを経験してきたり、つらいことが多かったりした経験が、やっと今になってうまい具合にその生々しさがぼんやりと薄められてきているのかもしれない。
特に彼は本当に生々しくその経験と罪悪感を持ち続けてきているので、いい加減そろそろ感情と記憶の鈍麻が彼を救おうとしてくれているのかもしれない。
「先生、病は気からなんて、嘘ですよ。」
この意味を私は重々しく受け取ったが、どう返事をしてよいのか、よい言葉を選べなかった。
自分は、若いときからこんなに気持ちをさいなまされ続けたのに、それでもなぜか大きな病もせずこうして長寿で生きている。明るく楽しく前向きに生きてきたわけではないのに、なぜ自分が長生きをするのか?
「先生、どうして私はまだ長生きしているんでしょうね」
「仲間があんなに若くして死んでいったのに、どうして私だけ」
「死んだ仲間の分も長生きしろということなんでしょうかね?」
答えはいつも堂々巡りで、もちろん結論は出ない。
当然ながら私のような若輩者にはなにも答えられず聞いているだけだ。
気休めな言葉を発することは、沈黙以上に失礼なことだろうということだけはこんな私にもわかる。
こんな時ほど「先生」という称号がむなしく、意味のないものに聞こえてくることはない。