2020.11.14 院長コラム
診察室の蜘蛛
私が診察室で深夜残業をしていると、ときどき3cmくらいの蜘蛛が、どこからともなく現れます。はじめはじーっと観察してみましたが、何となく見られているのがわかるのか、見つめている間はじっとして動きません。 そこで、知らないふりをして横目で見ながら仕事を再開すると、ゆっくり蜘蛛特有の滑らかな動きで部屋を縦断し、窓際の壁の角まで向かうのですが、そこからどこへ消えるのか、消息不明になります。当院は鉄筋コンクリートで、壁などの隙間がないはずなのに、どこから入ってきたのか、どこか物品や机の下にでも暮らしているのか、どこからえさを手に入れているのか、不明です。少なくともこの数カ月しばしば会うので、健康を維持する程度に食べ物や水を確保していることは間違いありません。いずれにしても生命力旺盛なやつです。見かけるたびに、心の中で「がんばって生きろよ。」と、声をかけています。また見かけたときには「まだ頑張って生きてるんだな。」とまた声をかけます。
私は、子どものころから小さな虫が苦手でした。みみずも、いも虫も、わらじ虫も、蜘蛛も、とにかく小さな虫は苦手でした。むしろ蛇やトカゲの方が得意なくらいです。小学生のころ、ある朝目覚めたら布団のなかでぺったんこになった芋虫を発見した時には気持が悪くて心臓発作が起こるかと思いました。私が背中で芋虫をつぶしていたようです。 クリニックを開いた当初、周囲にわらじむしが大量にいて、玄関からしばしば侵入してくるので、目のかたきのようにやつけていました。クリニックでワラジムシなんて、印象が悪いでしょう? ところが、年とともにだんだん、虫を殺すのが嫌になってきました。その理由を聞いていただけますか?
現在、毎年毎年、主に往診で見ている高齢の患者さんたちを看取っていますが、そのお看取りの仕事は勤務医であったときとはまったく違います。心臓の医者として救急を担当する大病院の勤務医のときには、病院での患者さんの死亡は「戦死」でした。救急の心不全やその他の心臓病という病気と対峙して、患者さん・家族と我々がタッグを組んで戦うのです。亡くなることは、我々のチームが戦いに敗れた、ということです。もちろん高齢者や、もう寿命が尽きたように亡くなる心臓病患者さんもいましたが、多くの看取りは壮絶な治療という戦いの末の敗戦です。医者が手を尽くして、患者さんも頑張って体力を消耗して、家族も疲れて、最後に受け入れがたい死を迎えていたのです。もちろん患者さんの死亡は、老人病院やホスピスなどではまた違うものでしょう。これは少なくとも救急病院の話です。
ところが現在クリニックの医者になってからは、死は必ずしも勝負をかけたイベントではなくなりました。もちろん戦いが必要な時には救急を担当する病院にお願いします。しかし高齢者のお看取りの場合、多くの場合は御本人や御家族が納得して、自然な形で死を迎えます。私も、もちろん治療はしますが、なるべく御本人も御家族も納得がゆくよう自然な最期を迎えられるよう配慮します。彼らの静かな死に立ち会っていると、まるで彼らが我々を含む残された人間にバトンタッチをしているような錯覚を覚えるのです。「十分生きたから、私は去るけれども、よろしくね。」「あの世で待ってるよ。またね。」お看取りした多くの患者さんがそう言っているように思えてならないのです。私も、「そのうち行くからよろしくね。」という気持ちでお見送りします。こんな気持ちになってきたのはクリニックの医者になっただけではなく自分も年をとってきたからかもしれません。
そんな心境で毎日を暮らしていると、この世で与えられた命を大切に使って次世代へバトンタッチしているのはもちろん人間だけではないことを強く感じるようになってきました。牛も馬もクマも虫も魚も、みんなが、必ずしも希望通りの命を全うしているわけではありませんが、できる範囲で一生懸命生きているのだなあ、そう考えると、ワラジムシも、蜘蛛も、蠅も、みみずも、みんな地球に一緒に生きているいとしい仲間で、いずれあの世でまた再開する仲間でもあるのかもしれません。
そんなことを考えながら、診察室の蜘蛛にも、彼(彼女?)の与えられた命を、満足ゆくまで全うしてほしいものだと願っているんです。
2014/05/26