2007年は、ひょんなことでスポーツクラブ通いにはまり込んだ。前年から不真面目なスポーツクラブ会員だったのだが、なぜか今年になって運動に汗を流すこと、特に走ることに快感を覚えるようになった。人の行動の動機なんて、本当に些細で意味のないことだったりする。それが昂じて札幌マラソンにも参加することになった。 私はもともと、子供の頃から運動とかスポーツとかいったものには全く無縁の人間である。小児期から肥満があり、運動はまったくだめ。それでも小学生のとき必死で特訓をして鉄棒で逆上がりができるようになった際の達成感は今でも忘れない。もちろん私以外の生徒は皆、もともと簡単にできる程度の逆上がりである。 運動会は1週間以上前から、何か天変地異が起こって中止にならないか、あるいはせめて自分が病気になって休む羽目にならないか、そんな事ばかり祈っていた。当日はとにかくかけっこでビリにならないよう、それが私にとっての最大の目標だったが、必ずしも達成できていたとはいえない。 その後見かねた親に無理やり勧められ剣道を習わされたが、全く不真面目かつ戦闘意欲のない剣士のため、練習試合では相手の面や胴などを気持ちよく打ち据えたことは皆無である。やはりこれも記憶に残っているくらいだから唯一の快挙だったのだろうが、ある練習試合で相手の小手にたまたま私の竹刀があたり、ひとつ点が取れてその後互いに無得点で勝ってしまったことがあった。おそらく1-2年の剣道生活のうち唯一の得点だったのではないか。その前にも後にも、女性剣士にも年少の剣士にも常に負け続けた。この剣道での脱落で、親は、「この子は運動とは関連のない世界で食べていかねばならないだろう。」と悟ったと思う。 その後も当然運動はからきしだめで、私は運動を通じて人生の無常を繰り返し感じることになった。しかし大学に合格した際、私は最初の運動音痴人生への反逆を企てた。自分自身で大学入学を祝って、とんでもなく激しい運動に挑戦しようと思ったのだ。どうせ運動で挫折を味わうのには慣れている。 だめでもともとだ。そこで、どんな運動が激しい運動だろうかといろいろ考えを及ばせた。空手、柔道、これらは小学生時に挫折した剣道のイメージがあり没になった。アメリカンフットボール、バスケットボール、バレーボール、これらはおそらく背が足りないので無理だろう。そこでラグビーに行き当たった。ラガーは必ずしも巨漢ではない。これだ!そして私は医学部のラグビー部に入部した。 入部直後から私は後悔の毎日、しかし自分で決めたことだから何とかついて行こうと頑張った。筋肉トレーニングは何とかこなしていたため、体はそれまでで最も贅肉が削げ落ち、逆三角形の体型になった。しかし、それまで20年近く培った運動音痴の神経は、急ごしらえの筋肉をバランスよく操ることなど全くできない。相変わらず走るのは遅い、ボールを捉えるのは下手、相手にぶつかってゆく闘志なし、と、ラガーとしては致命的な劣等生だった。特に闘志というのはおそらくもっと幼少の頃に培われるもので、あとから振り絞ろうとしてもそうは行かないようだ。その頃付き合っていた彼女にも、ラガーとしてカッコいいところを一度たりとも見せることなく、むしろラグビー部キャプテンからその彼女に「あいつはだめだ。」と宣告される始末。せめて彼女じゃなく私自身に言ってほしかった。しかしそんなこんなで2年ほどラグビーを続けたが、試合に出ることは練習試合も含め一度たりともなかった。 それから20有余年、札幌マラソンは私にとって二度目の運動音痴人生への反逆なのだ。スポーツクラブに通ったのは健康のためとはいえ、走ることに挑戦し始めたのは単なる快感の後押しである。ランナーには走った際に”エンドルフィン(麻薬様物質)”と呼ばれる快感を与える脳内物質が発生し、それで“ランナーズハイ”といわれる高揚した気分が得られるらしい。私の場合はそんなレベルではなく、単に「意外と走れるなあ」といったわずかな達成感が引き金になった。なにしろ運動は全く苦手である。スポーツクラブの指導者に一定のメニューを作ってもらったのだが、まじめに守らず約1年。今年になって運動前にランニングマシンで走ってみるとなんとか2kmほど走れた。もちろん息も絶え絶えの状態で、である。とにかく運動能力のなさには変な自信を持っていたため、逆に2km(走行時間15分)程度で「結構いけるんじゃあないか?」と思ってしまったのだ。それからは週に3回程度、多いときは週5回の割りで約半年間スポーツクラブで走り続けた。しかもせっかく走るのだから何らかの結果を残そうと、札幌マラソン10kmに申し込んだのだった。 その頃にはこんな私でも走行可能な距離が6-7kmに伸びた。繰り返しは力、それを運動で実感する日が来るとは夢にも思っていなかった。 しかし、現実は甘くない。ランニングマシンで走っても、実際の走りとは全く違う。機械は一定の速度で勝手に回ってくれるが、地面では自分が体を前に進めなければならず、しかも速度も自分で調整しなければならない。実際に外を走ってみると、機械で走る半分も走れず、愕然とした。札幌マラソンの練習会では速い人に引きずられ速く走りすぎてすぐにギブアップ!しかしその後も週3-4回のトレーニングを続け、時に外を走ってみたが、いつの間にか何とか10km走れるようになっていた。今度は10kmを1時間以内に走ることを目標にしたが、気が抜けたせいか、今度はランニングマシンでも10km走れなくなり、そのまま札幌マラソンを迎えた。 これを書いているのは10/7札幌マラソン終了後である。結局何とか10kmを走りぬき、達成感に浸ってこれを書いている。今年はささやかな自分への反逆は成功に終わった。来年はハーフマラソンに挑戦したいと思っているが、ほかにまだ挑戦したいことがいくつかあるため、いずれ走ることに対する情熱はなくなるかもしれない。明日から私は以前と同じように仕事と生活をするわけで、何も変わりはしない。私が10kmを約1時間5分で走り終えたその数十分後、同じゴールでハーフマラソン21kmを1時間5分で走った走者がゴールした。私の10kmは彼の20kmには比べようもない。とてもつまらない成果だ。でも自分だけは自分をほめることを止められない。そして自分の中身は何か変わっている。それだけで十分だ。自分だけが知っている、このささやかな満足感があれば当分何にでも頑張れるような気がする。私が特に誇りに思えるのは、大きな仕事や計画ではない、ちいさなことに達成感を得られるということ、そしてそれが必ず自分を変えているのだという確信だ。大きな事をして達成感を得られるのは当たり前かもしれない。でも小さなことでも十分人生を支える力になりうる、そう確信している。 今人生を生きる方向が見出せない若者、自分の仕事がつまらない若者に言いたい。自分に本当に適していることや自分を十二分に活かせることを探して途方にくれるなら、まずはなんでもいい、つまらないことでもひとつ挑戦してみてほしい。きっと何かが得られると思う。大掛かりな成功が大きな満足感につながるとは限らないし、大きな成功をただ夢見ていても何も起こらない。ばくちや宝くじのように努力なしに結果を得られるものではむしろ満足感は得られない。少しだけ挑戦してみてほしい。たとえば明朝、隣の人間にほほえみを見せるだけでもいい。ただし、挑戦することは人に迷惑をかけたり後ろ指を刺されたりすることではない。あとで自分だけでいい、暖かい気持ちで自分自身をほめてあげられる何かだ。それは必ず自分自身を次の段階へ押し上げる。できることは世界中に無数に転がっている。 |