初めて英語の授業でアイデンティティーという言葉を習ったとき、理解困難でとても戸惑ったことを覚えています。自己同一性と訳すのでしょうか。“自己と他人を区別すること“とも習いました。この言葉はとっくに和製英語として日本語に吸収されていますが、私が中学生になった1971年発行の日本語辞書にはアイデンティティーという言葉は載っていません。 この、日本人には理解しにくい言葉が輸入されて、日本で使われ始めたのは明らかに日本の時代背景を反映しています。その解説は社会心理学者にお任せするとして、私は内科医ですのでわれわれの肉体がアイデンティティーを主張する仕組みに触れましょう。 自己と他人を区別する機能は、肉体的に無数の装置があります。最も基本的な装置は細胞膜です。細胞膜は生命にとってもっとも大切な染色体を外界から隔離保護するために生まれたと考えています。たとえば細胞膜を持たない生物の代表であるウイルスは、染色体が守られていないため傷つきやすいですが、逆に染色体の変異を簡単に生じて外界に適応してゆきます。自分の形が次々と変異してゆく、そういった意味ではウイルスはアイデンティティーが低い生物といえるでしょう。細胞膜レベルで言うと、ウイルスは物理的アイデンティティーのない生物、ゾウリムシなどの単細胞生物以降は細胞膜という物理的アイデンティティーを有する生物ということになります。 肉体が自己と他人を区別する装置、その二つ目は免疫です。免疫は驚くべき正確さで自分の成分と外から入ってきた成分、たとえば細菌とかウイルスとか、化学物質などを区別し、排除しようとします。ただ、どのような機構で敵味方の区別をするスイッチが入るのかは今のところ私の知る限りでは明確になっていません。たとえば同じ花粉でも強い免疫反応が起こって花粉症を生じる人もいますし、同じ花粉があってもまったく免疫反応が生じない人もいます。花粉症の人はその花粉を敵とみなし、花粉症でない人は花粉を仲間とみなしているわけです。花粉症の方は、花粉が鼻腔などで認識されると、花粉を排出するために鼻水を増やします。さらに鼻の粘膜は腫れて血液の流れが増加し、いつでも白血球やリンパ球がたくさん集まって花粉という異物を処理しやすいようにします。花粉症の方が使用する抗アレルギー薬はこの“免疫反応=花粉を敵対視すること“は押さえられませんが、攻撃する力は弱くするので、症状も改善します。このような仕組みがもう少し解明されると、花粉症の人に朗報がもたらされるかもしれません。 また,免疫が自己の認識をできなくなってしまう状態、それにより多くの病気が生じます。これについてはまた別の機会にご紹介しましょう。 |