Aさんは、まじめだが頑固なご主人が地元の中堅会社を管理職で退職後、二人でいわゆる悠々自適の生活を始めて2年ほどになっていた。はじめは一日中ご主人が家にいることにわずかな疎ましさを感じたこともあった。 「おい、部屋が汚いぞ。」 「おい、玄関の電気が切れているぞ。」 「最近飯の味が濃いんじゃないか。」 もともときまじめな夫は仕事に注いでいたエネルギーを何かというと集中的に妻に向けた。息子も娘も離れて暮らす現在、常に傍らにいてなにかと口だけ挟んでくる夫に、違和感を感じた。 「あなた、何か趣味でも見つけたら?」 「運動でもしたらいいんじゃないの?」 「何かしないとぼけちゃうわよ。」 人間は個人差はあるものの動物であるわけで、必ず攻撃性を秘めている。攻撃性が外に向けて適度に放出されているあいだは建設的ではあるが、その矛先がなくなった今、妻も夫もおたがいに攻撃性を家庭内で発揮することになる。絵に描いたような退職後の夫婦生活。愛はある。しかしどんなに大切ですばらしいものでも使い方を誤るとうっとうしい代物になる。「夫は元気で留守がいい。」という言葉を実感するAさんであった。 ある日、夫が珍しく外出したと思ったら、2時間ほどして突然小さな子犬を抱えて帰ってきた。 「犬を飼うことにした。」 「ええっ!」 いつもワンマンな夫であったが、こんな大切なことを相談無しに決めるなんて・・・ 「この子は誰が面倒を見るのよ。犬は毎日毎日散歩をさせてあげなきゃいけないのよ!」 「俺が散歩をさせるさ。」 「だいいち、これから私たちいつまで元気でいられるかもわからないのに、こんな小さな犬を買ってしまって・・・私たちのほうが先にいってしまうかもしれないでしょう!」 「犬と一緒に健康になるさ。」 「どうせ三日坊主のくせに!」 「こいつと一緒に長生きするんだ。」だがそう言い切っていた夫は、その半年後、永遠のかくれんぼうをするかのようにあまりにもあっけなく脳溢血でこの世を去った。 「夫の忘れ形見。」そういうには少し無理がある。Aさんはもともと動物が好きではなかったのである。 かといって、放っておく訳にもいかない。Aさんは始めてペットショップというところに行くようになり、餌の選び方やトイレ用品の使い方を知った。自ら夫に言っていたように、毎日朝晩二回の散歩も欠かさない。雨の日も雪の日も。 「この子に罪はないのよね。」 Aさんが小出しにして夫に向けていた攻撃性は犬の世話へのエネルギーに転換されたようだ。夫と口げんかしながら閉塞感を感じていた数年間、あれはあれで今から思うと貴重な時間だった。一生のうちあのときにしかない一瞬、本当に一瞬のような退職後の数年間だった。時々犬の散歩をしてるとき近所の奥さんに言われることがある。 「奥さん、最近スリムで健康的になったじゃないの。」 「あなた、ご主人が亡くなってから若くなったようよ。秘訣はなあに?まさか・・・」 「なにいってんの、変わらないわよ。体重だって相変わらず・・・」 しかし彼女は気付いていた。確かに体力は夫と一緒の頃よりも増している。1人の食事、1人のベッド、1人の目覚め。すべてがかつてより色褪せたように感じている一方、「何かを始めなきゃ。」という意欲と体力がまだまだ私のなかに残っているのを感じてる。近頃近所の奥さんたちとのおつきあいも増えた。 「犬の散歩のせいかしら。」そう思うと、夫が残してくれたものはまんざらでもなかったのではないかと思える今日この頃である。 |